はじめに
第1回では、ネクストSDGsとして注目されるSWGsについて取り上げ、人、社会、地球のウェルビーイングを統合的に捉える視点が、これからの企業経営にとって重要であることを確認しました。
第2回では、人的資本経営とは何かについて整理しました。人的資本経営とは、人材を単なる労働力やコストとして見るのではなく、価値を生み出す資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、企業の中長期的な価値向上につなげる経営です。
第3回では、社員のウェルビーイングが企業の持続可能性を左右することを考えました。社員が安心して働き、成長し、仕事に意味を感じ、将来に希望を持てる状態は、顧客価値、組織力、変化対応力、人材定着、企業ブランドに直結します。
第4回では、人的資本経営を始めるためには、制度づくりの前に、経営戦略と人材戦略を接続することが必要であるとお伝えしました。
全5回の最終回となる今回は、人的資本経営を一過性の取り組みで終わらせず、企業価値向上につなげていくための実践ポイントを整理します。
人的資本経営は、導入して終わりではありません。研修を実施した。キャリア面談を始めた。評価制度を見直した。エンゲージメント調査を行った。もちろん、これらは大切な一歩です。
しかし、それだけで人的資本経営が実現したとは言えません。
本当に重要なのは、その取り組みによって社員の行動が変わったのか。管理職の関わり方が変わったのか。社員の成長実感が高まったのか。組織の対話が増えたのか。顧客への価値提供が高まったのか。企業の中長期的な価値向上につながっているのかという点です。
▪️目指す状態を明確にする
人的資本経営に取り組む際、まず考えるべきなのは「何を実施するか」ではなく、「どのような状態を目指すか」です。
たとえば、若手が早期に成長し、三年後には自ら顧客提案ができる状態を目指すのか。管理職が部下のキャリア支援を行える状態を目指すのか。ミドル・シニア層が経験を活かして後輩育成や専門業務で活躍する状態を目指すのか。社員が自分の仕事の意味を理解し、改善提案が自然に出る状態を目指すのか。
目指す状態が曖昧なままでは、施策の効果も判断できません。
人的資本経営は、制度を作ることが目的ではなく、組織の状態を変えることが目的です。そのためには、経営者と管理職と社員が共有できる言葉で、目指す姿を明確にすることが必要です。
この「目指す状態」があるからこそ、採用、育成、配置、評価、キャリア支援、働き方改革といった施策に一貫性が生まれます。
▪️KPIを設定し、取り組みを見える化する
人的資本経営は、人や組織に関する取り組みであるため、成果が見えにくいと感じる企業も多いかもしれません。しかし、見えにくいからこそ、一定の指標を持つことが重要です。
KPIを設定することで、取り組みの進捗を確認し、改善につなげることができます。
人的資本経営に関するKPIとしては、離職率、採用充足率、研修時間、資格取得者数、管理職登用状況、女性管理職比率、育休取得率、有給取得率、残業時間、エンゲージメントスコア、キャリア面談実施率、1on1実施率、改善提案件数などが考えられます。
ただし、ここで注意したいのは、数字を並べること自体が目的ではないということです。大切なのは、その数字が自社の経営戦略とどうつながっているかです。
たとえば、顧客提案力を高めたい企業であれば、営業研修の実施回数だけでなく、提案件数、顧客満足、受注率、若手の商談同席経験などを見る必要があるかもしれません。
技術継承が課題の企業であれば、資格取得者数だけでなく、熟練者から若手への指導機会、技能評価、後継者候補の育成状況を見る必要があります。
女性活躍を進めたい企業であれば、女性管理職比率だけでなく、候補者育成、上司の支援、働き方の柔軟性、本人のキャリア意欲を確認することも重要です。
KPIは、会社の状態を責めるためのものではありません。現状を見える化し、次の改善につなげるためのものです。数字に一喜一憂するのではなく、なぜその結果になっているのかを対話し、原因を考え、施策を見直していくことが大切です。
▪️人的資本の開示を信頼づくりに活かす
近年、企業に対して人的資本や多様性に関する情報開示が求められる流れが強まっています。これは上場企業を中心とした制度の話として語られることが多いですが、中小企業にとっても重要な意味を持ちます。
なぜなら、人的資本の情報は、投資家だけでなく、求職者、取引先、金融機関、地域社会に対する信頼形成にも関わるからです。
どのような人材を育てているのか。社員がどのように成長できるのか。働きやすい環境をどう整えているのか。多様な人材が活躍できるように何をしているのか。
こうした情報は、企業の姿勢を伝える重要なメッセージになります。
中小企業の場合、立派な統合報告書を作る必要はありません。まずは自社のホームページ、採用ページ、会社案内、社内報、地域向けの発信などで、自社の人への取り組みを丁寧に伝えることから始めることができます。
たとえば、若手社員の成長事例を紹介する。管理職研修の取り組みを発信する。キャリア面談の仕組みを説明する。社員の声を掲載する。育児や介護との両立支援を紹介する。地域活動に社員がどのように関わっているかを伝える。
これらはすべて、人的資本経営の見える化です。
ただし、開示で大切なのは、実態と発信を一致させることです。外向きに良いことだけを発信しても、社内の実感とずれていれば、かえって信頼を損ないます。
人的資本の開示は、見せるためだけのものではありません。自社の取り組みを振り返り、社員との対話を促し、改善につなげるためのものです。
▪️経営者が自分の言葉で語る
人的資本経営は、経営者の本気度が問われる取り組みです。
人事部門が制度を作っても、経営者が関心を示さなければ、社内には浸透しません。管理職も社員も、「これは本当に会社として大切にしていることなのか」を見ています。
経営者が語るべきことは、難しい専門用語ではありません。
なぜ自社にとって人が大切なのか。これから会社をどのような方向に進めたいのか。そのために社員にどのような成長を期待しているのか。会社として社員をどのように支援したいのか。
こうしたことを、自分の経験や思いと重ねて語ることが重要です。
特に中小企業では、経営者の言葉が社員に与える影響は大きいものです。経営者が本気で人への投資を語り、管理職と対話し、社員の声に耳を傾けることで、人的資本経営は単なる施策ではなく、会社の文化になっていきます。
▪️管理職を実践者として支援する
社員の成長やウェルビーイングに大きな影響を与えるのは、日々接している上司です。どれだけ会社が良い制度を作っても、現場の上司が理解していなければ、社員の実感にはつながりません。
管理職には、業績を上げるだけでなく、部下を育て、対話し、チームの心理的安全性を高め、キャリアを支援する役割が求められます。
しかし、管理職に求められる役割は年々増えています。だからこそ、会社は管理職に任せるだけでなく、管理職を支える必要があります。
具体的には、マネジメント研修、1on1の進め方の支援、評価者研修、部下のキャリア支援に関する学習機会、管理職同士の情報交換の場、上司自身のキャリアや悩みを相談できる機会などが考えられます。
管理職が孤立せず、部下育成に前向きに取り組める状態をつくることが、人的資本経営の浸透には欠かせません。
▪️社員を受け身にさせない
人的資本経営は、会社が一方的に社員に何かを提供するだけの取り組みではありません。
社員自身が、自分の成長やキャリアに主体的に向き合うことも必要です。会社は学びの機会や対話の場を提供し、社員はそれを活かして自分の可能性を広げていく。この双方の関係が重要です。
そのためには、社員に対して「会社が何をしてくれるか」だけでなく、「自分はどのように成長し、どのように貢献したいのか」を考える機会をつくることが大切です。
キャリア研修、自己理解の機会、上司との対話、社内での挑戦機会、異なる部門との交流などを通じて、社員が自分の未来を考えるきっかけをつくることができます。
人的資本経営は、会社と社員の関係を見直す取り組みでもあります。
会社は社員を使うだけの存在ではなく、社員の成長を支援する存在になります。社員は会社に依存するだけの存在ではなく、自分の力を磨き、会社や社会に価値を生み出す存在になります。
この関係性の変化が、これからの企業に求められます。
▪️SWGsの視点から人的資本経営を捉え直す
人的資本経営は、企業価値向上のために重要です。しかし、それだけにとどめるのではなく、SWGsの視点から考えることで、より大きな意味を持ちます。
社員が幸せに働けることは、人のウェルビーイングにつながります。社員が地域や顧客に価値を提供することは、社会のウェルビーイングにつながります。社員が環境配慮や持続可能な事業に関わることは、地球のウェルビーイングにつながります。
つまり、人的資本経営は、人、社会、地球の調和を企業の中で実践するための基盤なのです。
これからの企業は、「環境に良いことをしている会社」だけでは選ばれません。「社員を大切にしている会社」だけでも十分ではありません。
社員が成長し、その力を社会や地球のより良い未来に活かしている会社が、これからの時代に選ばれていきます。
▪️第5回のまとめ
今回は、人的資本経営を一過性の取り組みで終わらせず、企業価値向上につなげるための実践ポイントを整理しました。
人的資本経営は、制度をつくれば終わりではありません。研修を実施した、面談を導入した、評価制度を見直したという事実だけでは十分ではありません。
重要なのは、その取り組みによって社員の行動が変わり、組織の状態が変わり、企業価値や社会価値の向上につながっているかです。
そのためには、目指す状態を明確にし、KPIを設定し、取り組みを見える化し、社内外に誠実に発信し、経営者が自分の言葉で語り、管理職を支援し、社員自身の主体性を引き出していくことが必要です。
人的資本経営は、会社が一方的に制度を与えるものではありません。経営者、管理職、社員がともに向き合い、会社の未来と社員一人ひとりの未来を重ねていく取り組みです。
総まとめ〜SWGs時代に、企業が人的資本経営へ本気で取り組む意味〜
全5回を通じて、ネクストSDGsとして注目されるSWGsと、人的資本経営の関係について考えてきました。
第1回では、SDGsの次に問われる視点としてSWGsを取り上げました。SDGsは、企業が社会課題と向き合うための重要な共通言語となりました。一方で、2030年が近づく中、企業には社会課題への対応に加えて、人、社会、地球のウェルビーイングをどう実現するかが問われています。
第2回では、人的資本経営とは何かを整理しました。人的資本経営とは、人をコストではなく資本として捉え、その価値を最大限に引き出し、中長期的な企業価値向上につなげる経営です。これは単なる人事施策ではなく、経営戦略そのものです。
第3回では、社員のウェルビーイングが企業の持続可能性を左右することを考えました。社員が安心して働き、成長し、仕事に意味を感じ、将来に希望を持てる状態は、顧客価値、組織力、変化対応力、人材定着、企業ブランドに影響します。
第4回では、人的資本経営を始めるためには、制度づくりの前に、経営戦略と人材戦略を接続する必要があることを確認しました。自社がどこへ向かうのか。その実現にどのような人材が必要なのか。現在の組織にはどのような強みと課題があるのか。これらを整理することが、人的資本経営の出発点です。
そして第5回では、人的資本経営を継続的に進め、企業価値と社会価値につなげるための実践ポイントを見てきました。
ここまで見てきたように、人的資本経営は、特別な企業だけが取り組むものではありません。大企業だけのものでもありません。むしろ、人材一人ひとりの力が企業の未来に直結する中小企業にこそ、必要な経営の考え方です。
人が育つ会社は、変化に強くなります。
人が安心して意見を言える会社は、課題に早く気づけます。
人が仕事に意味を感じられる会社は、顧客により良い価値を届けられます。
人が自分の未来に希望を持てる会社は、次世代に選ばれます。
しかし、人的資本経営を実際に進めようとすると、多くの企業が壁にぶつかります。
自社の人材課題をどこから整理すればよいのか。経営戦略と人材戦略をどうつなげればよいのか。管理職をどう巻き込めばよいのか。社員のキャリア支援をどのように仕組み化すればよいのか。人的資本のKPIを何に設定すればよいのか。社内にどう浸透させればよいのか。
これらは、思いだけで進められるものではありません。自社の現状を客観的に見つめ、経営課題と人材課題を結びつけ、優先順位をつけながら、実行可能な形に落とし込んでいく必要があります。
だからこそ、人的資本経営の導入には、外部の専門家の視点を活用することも有効です。
社内だけでは当たり前になっていて見えにくい課題を整理する。経営者の思いを人材戦略として言語化する。社員や管理職の声を丁寧に拾い上げる。制度や研修を単発で終わらせず、経営の仕組みに落とし込む。人的資本経営をサステナブル経営やSWGsの文脈とつなげ、社内外に伝わる形に整える。
こうした伴走があることで、人的資本経営は単なる流行語ではなく、自社の未来をつくる具体的な取り組みへと変わっていきます。
これからのサステナブル経営は、環境対応だけでは完結しません。社会貢献だけでも十分ではありません。そこで働く人が幸せに、前向きに、成長しながら、社会に価値を生み出していくこと。その循環をつくることが、これからの企業に求められる人的資本経営であり、SWGs時代に選ばれる企業への道です。
自社の人材育成、管理職支援、キャリア支援、組織づくり、人的資本経営の導入に課題を感じている企業は、まずは自社の現状を整理するところから始めてみてはいかがでしょうか。
人を大切にする思いを、経営の仕組みに変える。
社員の成長を、企業の成長につなげる。
企業の未来を、そこで働く人とともにつくる。
その一歩を踏み出すことが、SWGs時代に選ばれ続ける企業への第一歩になるのではないでしょうか。

