はじめに
前回は、ネクストSDGsとして注目されるSWGsについて取り上げました。
SDGsが「負の遺産を次世代に残さない」ことを重視してきたのに対し、SWGsは「人」「社会」「地球」が調和し、豊かさと希望を次世代につないでいく未来志向の構想として注目されています。
特に企業経営においては、環境や社会への配慮だけでなく、そこで働く人が健やかに成長し、幸せを実感しながら価値を生み出せる状態をつくることが重要になります。
では、そのような企業を実現するために、経営は何を変える必要があるのでしょうか。
今回深掘りするテーマは、「人的資本経営とは何か」です。
人的資本経営という言葉を聞くと、「人を大切にする経営のことだろう」と感じる方も多いかもしれません。もちろん、それは間違いではありません。しかし、人的資本経営は単なる精神論ではありません。「社員を大切にしましょう」「働きやすい職場をつくりましょう」というスローガンだけでもありません。
人的資本経営とは、人材を企業価値を生み出す重要な資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方です。
この考え方を理解することは、SWGs時代の企業経営を考えるうえで欠かせません。
▪️人材を「資本」として捉えるとはどういうことか
人的資本経営の中で特に重要なのは、「人材を資本として捉える」という点です。
これまで多くの企業では、人にかかる費用は「人件費」として管理されてきました。人件費は損益計算書上の費用であり、経営においては抑えるべきコストとして見られがちです。
もちろん、企業経営において適切なコスト管理は必要です。しかし、人を単なるコストとしてしか見ていないと、教育や育成、キャリア支援、働きやすい環境づくりは「余裕があれば行うもの」になってしまいます。
業績が厳しくなると研修費が削られる。忙しいから部下育成は後回しになる。採用はするが、入社後の成長支援は現場任せになる。評価制度はあるが、社員の成長やキャリアとつながっていない。
こうした状態は、多くの企業で見られるのではないでしょうか。
しかし、これからの時代にこの考え方では、企業は持続的に成長することが難しくなります。なぜなら、企業の価値を生み出す源泉が、ますます「人」に移っているからです。
商品やサービスを生み出すのは人です。顧客との関係を築くのも人です。業務を改善するのも人です。新しい事業を考えるのも人です。組織の雰囲気をつくるのも人です。企業が社会課題に向き合い、サステナビリティ経営を進めるのも、最終的にはそこで働く人の意識と行動にかかっています。
つまり、人は単なる労働力ではなく、企業の未来をつくる資本なのです。
▪️人的資本経営は「人事部門だけの仕事」ではない
人的資本経営とは、この当たり前のようでいて見過ごされがちな事実を、経営の中心に置き直す考え方です。
人に投資することで、その人の能力や意欲や経験が高まり、結果として企業の競争力や収益力や社会的価値が高まる。この流れを意図的に設計することが、人的資本経営の本質です。
ここで重要なのは、人的資本経営は「人事部門だけの仕事」ではないということです。
採用、教育、評価、配置、労務管理と聞くと、人事部門の業務と考えられがちです。しかし人的資本経営は、経営戦略そのものと深く結びついています。
自社が今後どのような事業を伸ばしたいのか。どのような顧客に価値を提供したいのか。どのような社会課題に向き合いたいのか。その実現のために、どのような人材が必要なのか。現在の社員にはどのような強みがあり、どのような力を伸ばす必要があるのか。
こうした問いは、人事部門だけで答えられるものではありません。経営者自身が向き合うべき問いです。
人的資本経営は、人材に関する取り組みを経営戦略と結びつけるものです。だからこそ、経営者、役員、管理職、人事部門、現場が同じ方向を向いて進める必要があります。
▪️従来型人事管理との違い
従来型の人事管理では、採用、研修、評価、配置がそれぞれ個別に行われていることが少なくありません。
採用は採用、研修は研修、評価は評価としてバラバラに運用され、経営戦略とのつながりが弱い状態です。その結果、「研修は実施しているが、事業にどう役立っているのかわからない」「評価制度はあるが、人材育成につながっていない」「若手を採用しているが、数年で辞めてしまう」といった問題が起こります。
人的資本経営では、これらを一つの流れとして捉えます。
経営戦略を実現するために必要な人材像を明確にし、その人材を採用し、育成し、適切に配置し、公正に評価し、成長機会を提供し、長く活躍できる環境を整える。
つまり、人に関する取り組みを、経営の目的に向かってつなげていくことが求められます。
従来型の人事管理が「人を管理する」発想だとすれば、人的資本経営は「人の価値を引き出す」発想です。
従来型の人事管理が「不足した人材を補充する」発想だとすれば、人的資本経営は「将来必要な人材を育てる」発想です。
従来型の人事管理が「人件費を抑える」ことに意識を向けがちだったとすれば、人的資本経営は「人への投資効果を高める」ことに意識を向けます。
この発想の転換こそが、人的資本経営の第一歩です。
▪️なぜ今、人的資本経営が重要なのか
人的資本経営が注目される背景には、いくつかの大きな変化があります。
一つ目は、人口減少と人材不足です。
日本では労働力人口の減少が進み、多くの企業で採用が難しくなっています。以前のように、必要な人材を外部から簡単に採用できる時代ではありません。採用できたとしても、入社後に育て、定着してもらい、力を発揮してもらわなければ、企業の成長にはつながりません。
二つ目は、働く人の価値観の変化です。
給与や安定だけでなく、自分らしく働けるか、成長できるか、仕事に意味を感じられるか、職場の人間関係が良いか、将来のキャリアに希望を持てるかが重視されるようになっています。
企業が一方的に働き方を決め、社員がそれに従うという関係だけでは、人材の定着も活躍も難しくなっています。
三つ目は、企業を見る社会の目の変化です。
投資家、取引先、求職者、地域社会は、企業がどのような人材戦略を持ち、社員をどう育て、活かしているかを見るようになっています。上場企業を中心に人的資本や多様性に関する情報開示も進んでいますが、この流れは中小企業にとっても無関係ではありません。
採用、取引、金融機関との関係、地域からの信頼形成において、「人を大切にし、育て、活かす企業であるか」はますます重要な判断材料になるからです。
▪️人的資本経営で企業が大切にすべきこと
では、人的資本経営に取り組む企業は、具体的に何を大切にすべきなのでしょうか。
第一に、社員を「現在の労働力」としてだけでなく、「将来の価値創造の担い手」として見ることです。今できる仕事だけで評価するのではなく、今後どのような力を伸ばせるのか、どのような役割を担えるのかを考える必要があります。
第二に、人材育成を現場任せにしないことです。もちろん、現場での経験は最も重要な学びの場です。しかし、上司の力量や忙しさによって育成の質が大きく変わるようでは、組織全体として人は育ちません。会社として、どの階層に、どのような学びや経験機会を提供するのかを設計することが必要です。
第三に、キャリア支援を個人任せにしないことです。人生100年時代と言われる中で、社員一人ひとりが自分のキャリアを考えることは重要です。しかし、会社が「自分で考えてください」と突き放すだけでは、社員は将来に不安を抱えたままになります。会社の方向性と社員のキャリアを対話によってすり合わせ、成長の道筋を一緒に考えることが求められます。
第四に、管理職を支援することです。人的資本経営の実践において、管理職の役割は非常に大きいものです。部下の成長を支援し、対話し、心理的安全性をつくり、チームの成果を上げることが期待されます。しかし、多くの管理職はプレイヤー業務も抱えながら、育成や評価や組織づくりを担っています。人的資本経営を本気で進めるなら、管理職に任せるだけでなく、管理職を支える仕組みも必要です。
第五に、人への投資を経営成果と結びつけて考えることです。研修を何回実施したか、制度をいくつ作ったかではなく、その結果として社員の行動がどう変わったのか、組織の力がどう高まったのか、事業にどう貢献したのかを見ることが重要です。
▪️第2回のまとめ
今回は、人的資本経営とは何かについて整理しました。
人的資本経営とは、人を単なる労働力やコストとして見るのではなく、企業価値を生み出す資本として捉え、その価値を最大限に引き出していく経営の考え方です。
これは、社員に優しくするだけの経営ではありません。社員の成長と企業の成長を両立させる経営です。働きやすさだけでなく、働きがいを高める経営です。人を守るだけでなく、人の可能性を引き出す経営です。
そして、この考え方は、SWGsが目指す人のウェルビーイングとも深くつながっています。
社員が自分の力を発揮し、成長し、周囲と良い関係を築き、仕事を通じて社会に価値を生み出していると実感できる状態。それはまさに、企業におけるウェルビーイングの実現です。
人的資本経営とは、人を大切にする経営を、理念で終わらせず、仕組みと戦略に落とし込むことです。社員の幸せを企業価値につなげ、企業の成長を社員の成長に還元していくことです。
これからの企業は、「人が足りない」と嘆くだけではなく、「今いる人の可能性をどれだけ引き出せているか」を問う必要があります。
人的資本経営は、大企業だけのものではありません。むしろ、人材一人ひとりの影響が大きい中小企業にこそ、必要な経営の考え方なのです。
次回予告
次回は、SWGsと人的資本経営がなぜ深く結びつくのかを掘り下げます。
社員のウェルビーイングは、なぜ企業の持続可能性を左右するのでしょうか。働きがい、成長実感、心理的安全性、キャリア支援は、どのように企業価値につながるのでしょうか。
第3回では、SWGs時代に人的資本経営が不可欠である理由を、社員のウェルビーイングという視点から考えていきます。

