第4回 企業は人的資本経営をどう始めるべきか 〜制度づくりの前に必要な、経営戦略と人材戦略の接続〜

目次

はじめに

第1回では、ネクストSDGsとして注目されるSWGsについて整理しました。第2回では、人的資本経営とは、人をコストではなく価値を生み出す資本として捉える経営であることを確認しました。第3回では、社員のウェルビーイングが企業の持続可能性を左右することを考えてきました。

ここまで見てきたように、SWGs時代の企業経営において、人的資本経営は欠かせないテーマです。社員が安心して働き、成長し、仕事に意味を感じ、将来に希望を持てる状態をつくることは、顧客価値、組織力、変化対応力、人材定着、企業ブランドに直結します。

では、人的資本経営を実際に導入するには、企業は何から始めればよいのでしょうか。

今回深掘りするテーマは、「人的資本経営の始め方」です。

人的資本経営という言葉が広がるにつれて、多くの企業が「何か取り組まなければならない」と感じ始めています。しかし、ここで注意したいことがあります。それは、人的資本経営を「新しい制度を増やすこと」と捉えてしまうことです。

研修制度をつくる。キャリア面談を導入する。エンゲージメント調査を実施する。評価制度を見直す。女性活躍やシニア活躍の施策を整える。

これらは、もちろん重要な取り組みです。しかし、制度や施策を単独で増やしても、人的資本経営が実現するわけではありません。

人的資本経営の出発点は、制度ではなく経営戦略です。

▪️まず確認すべきは「自社がどこへ向かうのか」

人的資本経営を始めるうえで、最初に確認すべきことは「自社はどこへ向かうのか」という問いです。

自社はこれからどのような価値を顧客や社会に提供していくのか。どの事業を伸ばしていくのか。どの市場で選ばれる企業になりたいのか。地域や社会にどのような存在価値を発揮したいのか。

その未来を実現するために、どのような人材が必要なのか。現在の社員にはどのような強みがあり、どのような力を伸ばす必要があるのか。

この問いに向き合わずに制度だけを整えても、現場では「また新しい取り組みが増えた」と受け止められてしまいます。

人的資本経営は、人事施策の寄せ集めではありません。経営戦略を実現するために、人と組織の力をどう高めるかを設計する経営改革なのです。

経営の方向性が曖昧なままでは、必要な人材像も曖昧になります。必要な人材像が曖昧なままでは、採用も育成も評価も場当たり的になります。

つまり、人的資本経営を始めるには、まず経営者自身が「自社の未来」を言語化することが必要です。

▪️経営戦略から必要な人材像を明確にする

次に必要なのは、経営戦略を実現するための人材像を明確にすることです。

新規事業を進めるなら、変化を楽しみ、社外と連携し、試行錯誤できる人材が必要かもしれません。既存事業の品質を高めるなら、専門性を磨き、改善を積み重ねる人材が必要かもしれません。地域課題に向き合うなら、地域との関係を築き、相手の声を聴き、協働できる人材が必要かもしれません。

ここで大切なのは、抽象的な人物像で終わらせないことです。

「主体性のある人材」「挑戦できる人材」「コミュニケーション力のある人材」といった言葉はよく使われます。しかし、それが自社において具体的にどのような行動を指すのかを明確にしなければ、採用や育成には使えません。

たとえば「主体性」とは、自分で課題を見つけて提案することなのか。指示を待たずに行動することなのか。顧客のために一歩踏み込むことなのか。チームのために周囲を巻き込むことなのか。

自社にとって必要な行動レベルまで落とし込むことが重要です。

必要な人材像が明確になると、採用、育成、配置、評価、キャリア支援の方向性が見えてきます。逆に、人材像が曖昧なままでは、それぞれの施策がバラバラに動いてしまいます。

▪️現状を見える化する

人的資本経営では、理想の人材像を描くだけでなく、現在の組織の状態を把握することが欠かせません。

社員の年齢構成はどうなっているか。若手は定着しているか。管理職候補は育っているか。女性やシニア、外国人材など、多様な人材が活躍できているか。教育機会は十分か。離職の理由は何か。社員は会社の方向性を理解しているか。職場で意見を言いやすいか。キャリアについて相談できる機会はあるか。

こうした現状把握は、数字と対話の両方で行うことが重要です。

離職率、採用数、研修時間、有給取得率、残業時間、管理職比率、エンゲージメント調査などの数値は、組織の状態を把握する手がかりになります。

一方で、数字だけでは見えないこともあります。社員が何にやりがいを感じているのか。どのような不安を抱えているのか。上司との対話に何を求めているのか。現場でどのような負担が生じているのか。こうした声を聴くことも必要です。

現状把握で大切なのは、問題を誰かの責任にしないことです。

「若手に根性がない」「管理職の意識が低い」「社員が主体的でない」と個人の問題にしてしまうと、組織は変わりません。

人的資本経営では、社員の行動の背景にある仕組みや環境に目を向けます。なぜ若手が育ちにくいのか。なぜ管理職が部下育成に時間を割けないのか。なぜ社員が主体的に動けないのか。その原因を組織の仕組みとして捉えることが重要です。

▪️人材戦略を設計する

経営の方向性、必要な人材像、現状の課題が見えてきたら、次に行うべきことは人材戦略の設計です。

人材戦略とは、経営戦略を実現するために、人と組織をどのように育て、活かしていくかを示すものです。

たとえば、若手を早期に戦力化するために、入社後三年間の育成プログラムを整える。管理職が部下育成を担えるように、マネジメント研修と1on1の仕組みを導入する。ミドル・シニア層の経験を活かすために、後輩育成や専門職としての役割を明確にする。女性管理職を増やすために、候補者の育成機会と上司の支援体制を整える。社員のキャリア自律を促すために、キャリア面談や社内公募の仕組みを検討する。

こうした施策を、経営課題と結びつけて設計していきます。

ここで重要なのは、すべてを一度にやろうとしないことです。人的資本経営は大切ですが、施策を一気に増やすと現場が疲弊します。

まずは自社にとって優先度の高い課題を見極めることが必要です。採用難が深刻なのか。若手の定着が課題なのか。管理職育成が急務なのか。技術継承が必要なのか。社員のエンゲージメントが低いのか。

自社の状況によって、最初に取り組むべきテーマは異なります。

▪️施策を現場に根づかせる

人的資本経営の難しさは、制度を作ることよりも、現場で実践される状態にすることにあります。

たとえば、1on1を導入しても、上司が目的を理解していなければ、単なる進捗確認の時間になります。キャリア面談を始めても、社員が本音を話せなければ意味がありません。研修を実施しても、現場で活かす機会がなければ行動変容にはつながりません。

だからこそ、施策を導入する際には、目的を丁寧に伝えることが必要です。

なぜこの取り組みを行うのか。会社は何を目指しているのか。社員にとってどのような意味があるのか。管理職には何を期待しているのか。こうしたことを言葉にし、繰り返し伝えることが大切です。

また、経営者の関与も欠かせません。

人的資本経営を人事部門に任せきりにしてしまうと、現場では「人事の取り組み」と受け止められます。経営者自身が、人への投資の重要性を語り、自社の未来と結びつけて説明することが必要です。

経営者の本気度が伝わらなければ、人的資本経営は社内に浸透しません。

▪️中小企業こそ始めやすい人的資本経営

人的資本経営の導入に、決まった正解はありません。大企業には大企業のやり方があり、中小企業には中小企業のやり方があります。

重要なのは、自社の経営課題と人材課題を結びつけ、自社に合った形で取り組みを進めることです。

中小企業においては、制度が十分に整っていないことを弱みと感じるかもしれません。しかし、見方を変えれば、経営者と社員の距離が近く、一人ひとりの顔が見えやすいことは大きな強みです。

社員の声を直接聴き、柔軟に仕組みを変え、経営の思いを伝えやすい環境があります。

人的資本経営は、必ずしも大がかりな制度から始める必要はありません。経営者と社員の対話から始めることもできます。管理職との役割確認から始めることもできます。社員のキャリア面談を試行することから始めることもできます。

大切なのは、「人を大切にしているつもり」で終わらせないことです。

人を大切にする思いを、経営戦略とつなげ、仕組みに落とし込み、継続的に改善していくことです。

▪️第4回のまとめ

今回は、企業が人的資本経営をどのように始めるべきかについて考えてきました。

人的資本経営は、制度を増やすことから始まるのではありません。まず必要なのは、自社がどこへ向かうのかを明確にし、その実現に必要な人材像を描くことです。

そのうえで、現在の組織の状態を見える化し、経営戦略と人材戦略を接続し、採用、育成、配置、評価、キャリア支援などの施策を一つの流れとして設計していくことが重要です。

人的資本経営は、難しい言葉に聞こえるかもしれません。しかし本質は、自社の未来をつくる人を、どう育て、どう活かし、どう幸せに働ける状態にするかという問いです。

この問いに向き合うことが、SWGs時代に選ばれる企業への第一歩になります。

制度の有無や会社の規模に関係なく、人的資本経営は始めることができます。むしろ、経営者と社員の距離が近い中小企業だからこそ、自社らしい人的資本経営をつくりやすいとも言えます。

次回予告

次回はいよいよ最終回です。

人的資本経営を一過性の取り組みで終わらせず、企業価値向上につなげるためには何が必要なのでしょうか。

KPIの設定、人的資本の見える化、社内浸透、継続改善の視点から、SWGs時代に選ばれる企業になるための実践ポイントを整理します。

そして最後に、全5回を通じてお伝えしてきた内容を振り返りながら、企業が人的資本経営に本気で取り組むために必要な視点をまとめていきます。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次